-放浪腐女発酵観察日記- ブログ版

オタな海外放浪貧乏旅行者の腐女子覚醒日記。SF,ロボット、天文好きな皆既日食ハンターの筈が、ある日うっかり腐海に墜落。やおい免疫あったが仇のBL大発症。急遽、隔離病棟設置。こちら腐れ外道blog。 ダダ漏れ萌えと、オタク独り語り、阿呆バックパッカー海外貧乏旅行バカ話しか御座いませんが、お暇ならごゆるりと(^_^;)  ★はてなダイアリーがメイン。こちら同記事の予備です(๑╹◡╹๑) http://d.hatena.ne.jp/kokuriko-fufu/

かつてだれも描けなかったやおいとして読む『私の男』 桜庭一樹

かつてだれも描けなかったやおいとして読む『私の男』 桜庭一樹



年末までに今まで放置の未完記事をガンガン潰していこうと思いつつ、身体も心も空回り。どうも腐女子(゚д゚;) として最重要燃料である<萌>が不足しておるようです。リハビリから始めたいと思います。どうかご了承下さいませ。*゚∀゚)*。_。)  (^-^;;;;


  ★   ☆   ★   ☆   ★


この10日余り、しつこい発熱に浮かされつつ、返却日が迫っている本を読んでおりました。桜庭一樹『私の男』 噂の直木賞受賞作。前作『赤朽葉家の伝説』を読んだ時、ああ、この人を待っていた‥‥となぜか思ったのは、やはり間違いじゃなかった。


主人公の若い女性と彼女を取り巻く人間たちの、それぞれ一人称で綴られる文体は、とても平易で、読みやすいのだけれど、私の熱のせいか、それとも内容の濃密さのせいか、一気に駆け抜けることが出来ず、数日に渡って息を切らして、読み切った。


日常口語から逸脱しない表現にも関らず、登場人物から放たれる言葉に、時折とてつもない処へ連れて行かれる、眩暈に似た感覚を味わいながら思う。くっそぉ、なんて小説を書いてくれるんだ。



そして、読み終わってから気が付いた。これって‥‥“やおい”だ。やおいじゃないか。凄い。今だかつて、誰も書き得なかったやおいの世界だよ。‥‥ええ、だから、この日記の題名には偽り有りなんだけれど。そう思いながら読んだわけじゃない、後付の題名なので(笑)


いつもながら、レビューの出来ない人間なので、どういう小説なのか上手く説明できなくて御免なさい。一言なら、インセスト・タブー。養父と娘の物語‥と言っておこう。


やおいが本来、〝その〟関係性を描くのに使う障壁というか額縁というか骨組みというか方便は、言わずと知れた同性愛でございます。やはり社会的タブーである愛が前提なのですが‥‥異性同士でも、やおい、あるいはヤオイ的関係ってあると思う。

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり


この間の、よしながふみさんと羽海野チカさんの対談で語られていたっけ。例えば、「トリック」の仲間由紀恵阿部寛(役名知らん(^-^;)、「ケイゾク」の二人、とかはやおいって。恋人よりも或いは近い関係だけど恋の甘さに陥らず、ライバルでもあるけど、つまり互いを認め合った相棒。抱き合うよりも、戦場で背中を任せられる関係、かなぁ? 同性でも、NANAの二人のナナやハチクロの山田とはぐちゃんはやおい、って言ってたっけ。


ううむ。やおいって何? いや、私がやおいをどんな風に捉えてるかと聞かれると未だに困るんだけれども、上の意見には賛成だなぁ。でも、異性の場合、恋愛に陥ってしまったら終わり、ましてや性関係が介在してしまうと、もうそれは”やおい”ではなくなってしまう気がする。すごくする。


だから、いまだかつて、異性同士、ましてや性を介在させて、やおいを描けた作家も作品は存在していなかったと思う。栗本薫女史が『真夜中の天使』の後書きで、この関係が男女だったらどんな軋轢があっても結局嫁に行って終わりって書いてたしねぇ(^-^;;;;


彼女が書いた異性愛でかつ、やおいっぽいものって言えば、『レダ』だろうけれども‥‥これは、やおいというより、やおいの失敗例のような気がする。当時作品としては好きだったんだけれども。いや、やおいって、失敗するものだというか、成功したら御仕舞いなのかなぁ‥‥うーん。

レダ〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

レダ〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)


あ、ギリギリ近い、と思うのは、桐野夏生の『残虐記』だろうか。少女誘拐監禁事件の被害者だった作家の失踪をめぐる物語。でも、あれは違う‥‥よな。実事件をモデルとしているだけに、この作家一流の優しさが“それ”と直面することを避けた気もする。ネタバレになるので詳しく書けないけど。


残虐記 (新潮文庫)

残虐記 (新潮文庫)


おっと、また話がずれるので仕切り直し。
いまだかつて、誰も成功していなかった、異性同士でのやおいという関係性、(しかもあからさまに性を介在させて)を描くってことに、ついに成功した例としての『私の男』に話を戻そう。そーなのよ、これって同性愛という障壁のかわりに、インセストタブーが使われてるだけの話よ。


義理であろうと父娘相姦というのは、支配、抑圧の極みであるのだが‥‥それが、「やおい」に辿り着くんだからなぁ‥‥、すごいや。


あ、いや、どういう意味かというと。
やおいって言葉を、私も自分がどんなふうに捕らえているかは未だに分かってないのだけど。「BL」と呼ばれる部分と比較して、時代ごとの変遷の波から、その一面を捉えることは出来る気がするんだけれど、ぽんと「やおい」を手渡されて、説明しろ、それはお前に取ってどんな意味があるんだと聞かれると、それは「おまえってなんだ?」って、聞かれたようなもので、戸惑う(笑) 非常に抽象的な禅問答にもつれこんじゃいそー^な、やばさがある(^-^;;;;


でも、一面として‥‥なら、こうかな。
あからさまな支配、被支配(つまりは陵辱)を通し、焼けつくような執着と、幾度かの立場の逆転を経て、対等な関係へ辿り着くこと。肉体を通して愛情を確認して、痛みから快楽を受容し、そしてやはり、対等性へと流れ着くこと、かなぁ。


単なる(立場の)逆転であってはいけない、と思う。それならばもっと容易い。それは違うのだ、たぶん。


そして、やおいが描きたいのは、“対等性へとたどり着くためのドラマ”であって、決して“対等性自体”ではないような気がする。


ああ、そうだ。前述の性交渉や恋愛を介在させない異性間やおい、或いはその関係をやおいと捕らえたい層は、そこに対等性を欲して、見出す。そこにいたるまでのドラマは多分それほど重要ではない。というか、たどり着いた後も物語は終わらない。“対等性自体”(を維持しようとする力学)が物語を生み続けることができる。


けれど、やおいたるやおい、つまり性愛を介在させた同性間(といってもゲイではなく受け攻め)の関係性は、違うよなぁ。


私の男

私の男



<更新中>


で、物凄く自分でも嫌なんですが、延々ここまで来たあげく、思い切り端折って結論ぶっちゃければ、女性をやおいへ走らせるのって、やはり親子関係から来るものが大きいと思う。良い親、悪い親って話ではなく、親と子の“相性”、親子の生きる時代性の違い(世代間ギャップ)、そして親が窓となって見せてくれた世間と、実際の世界のズレ、屈折率の問題‥‥というか。そして、それはよく語られる厳しい父子関係とやらの問題だけではなく、実は、母娘関係が大きいのではないだろーか、って思う。母娘関係って、母親の、その夫(まぁつまり父なんだが)との関係が反映されるから。


少しネタバレになってしまうのだけど、私が、「私の男」をやおいだと思うのは、“養父”と言う、父であって父親でない、一人の男を介在させて、遥か遠く、その母娘関係があぶりだされているような気がするから。いや、これって、殆どの人が賛成して下さらない勝手な読み方だと思うんだけどね(^-^;;;;


で、その母親って、主人公の娘の母ではない‥‥気がする。そんなに単純な話じゃないんだ。その物語の要となる“私の男”を中心に色んな親子関係が‥‥というか、一人の人間の中の親子関係像が、解体と再構築を求めて錯綜している気がする。それはとてつもなく歪んだ忌まわしい関係性を通して描かれているんだけれど、でも、そうでなくては描けないことなんだと思う。非常に純粋で、だからこそ毒々しい。その毒が、使いようで薬にもなるような、そんな危険な物語。


筆者が女性である以上、女性として、女性へこの物語を投げかけたとして勝手に考えるけれども。
女って、自分と同じ女である母親に関して余り甘い夢は見られませんよね(笑) 男ほどに母を恋うることは不可能なのよ。でも、女性にこそ、歪んでしまった母親像の解体と再構築が必要だとしたら、それは男の視点を通すほうが容易いかと。


<更新中>